--- layout: old_post title: 大きな物語・非物語を共有するためのデータベースは何か permalink: /tatsuya/show/358 ---

昨日から引き続き某koma-tak 日記ウォッチ

大きな非物語の共有するためのデータベースは、
いったいどこに存在するのか?という問題が自分の中で浮かんできた。

大きな物語の時代は、データベースとはまさにマスメディアそのものであった・・・・・

確かに、物語に対するメディアの影響は大きいと思う。自分も改めて考えてみる。
「大きな物語」には、まず「イデオロギーの時代」があったと思うけど、自分はこの時代を体験していないし何とも言えない。。

次は「資本の時代(仕事の時代)」マジメに働けば幸せになれるという物語を皆が共有して、働くことが自己確立になりえた。働けばテレビが洗濯機がエアコンが車が手に入る。この時代のメディアは裕福な生活という大きな物語を共有する必要があったと思う。

次にやってきたのは「マスメディア/広告の時代」バブルに限界があることも判ってきたし、何より目標となるべき「裕福な生活」を皆手に入れてしまった、洗濯機もテレビもエアコンも車もそこらじゅうにある時代には、新しい物語(価値観)が必要になってきたんだ。ここでついに「物語を共有するための道具」だった筈のマスメディアが「大きな物語」そのものになる時代が来た。ついに

大きな物語の時代、データベースとはまさにマスメディアそのもの

になったんだ。
これは時代的に自分も体験できた、TVでプッシュしたCDは数百万枚単位で売れて、TVでプッシュする本は数百万部単位で売れる、特に音楽業界の一種異常な大ヒットの連続はこの時代特有の物だと思う。あの時代の熱狂的なCDセールスはちょっと異常だ、皆が何か「大きな物語」をずっと見させられていたと思う。趣味が細分化してそれぞれが好きな音楽を聞く今の方が健全。WinnyのせいでCDが売れなくなったんじゃなくて、皆が本当に好きなCDを買い始めて正常に戻っただけじゃないだろうか?

さあ、そんな広告代理店とTV局蜜月の時代も、ネットジャンキーやモヒカン族のうろつく危険なWebの登場で終わりが近づいて来た。ついに誰も大きな物語を共有せず、それぞれが好みの小さな物語を取捨選択して、それぞれの好みで共有する時代「趣味の時代」だ。

過去の「大きな非物語」をスクラップ、自分たちの好きな味付けをしてリミックス、その内優れたリミックスがさらにリミックスを産み、いつかオリジナルになる。それぞれがそれぞれの居心地良い「大きな非物語」を生む時代だ、自分を大きな物語(価値観)に合わせる必要は無い、自分に合った大きな非物語を探せば良いんだし、無ければ作れば良い。

この「大きな物語」から「大きな非物語」への転換を可能にしたメディアは何か/結局その非物語を共有するデータベースとは何か、それは大きく言うと「ネット」そのもの、具体的にするとSNSのコミュニティだったり、SBMのブクマ/タグ付けだったり、ニコニコ動画だったり、2chだったりするんだろう。同意。

こう考えると、日本中で一つの大きな物語を共有していた時代があったが、敗戦・バブル色々な要因でそれが失われ、一部のマスメディアが大きな物語を生み出す時代になり、ついに国民1億人がそれぞれ自由に大きな物語を生み出せる時代になったんだと思う。岡田 斗司夫の言う 国民総洗脳時代というか。面白くもあり悪い面もあると思う。いや、やっぱ面白いな。