--- layout: old_post title: ニッポンの小説 百年の孤独 - 高橋源一郎 permalink: /tatsuya/show/307 ---

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ニッポンの小説 百年の孤独 を読んだ。なんというか言葉を扱うことを仕事にしているプロの気迫を感じた。そうか、こんなに真剣に考えてたのかと関心したし、参考文献で中原昌也と女性雑誌JJが並んでる文芸評論なんて初めて見た。以下メモ

プロローグ ニッポン近代文学、百年の孤独

ニューヨーク・コロンビア大学で高橋源一郎が行った講演を文章にまとめた物(らしい)、日本近代文学がどう生まれて育ってきたのかという話が中心だけど、その中で出てくる「言葉が流行するときひどく限定された、間違った使い方をされる」という話が面白かった。

高橋源一郎の学生時代、左翼学生運動真っ盛りの頃学生が機動隊に殺される事件があった。高橋源一郎の周りの学生も抗議活動としてデモに行き、詩や小説や批評を書き、皆忙しく活動していたと。だがその頃高橋源一郎は一人「暴力」という言葉について考え評論を書いていた、それによるとまず日本人が「暴力」と言うときそれには2種類の意味があると、それは英語で言う"Violence"と"force"で、前者はブルジョワジーがプロレタリアートを押さえつける力であり、後者はプロレタリアートがブルジョワジーの用いる"violence"をはね除けるための反発力だと。

ここで面白いのは、政治的に成田空港管制塔占拠事件の是非が問題ではなく、「暴力」という言葉が(二つの意味が混在したまま)乱用されていることに高橋源一郎は疑問を持っていたことだと思う。

新聞やテレビが「如何なる時でも暴力を用いるべきではない」などといっている時に、「いや。少なくともそこでは、単純に『暴力』という言葉を使うべきではない、誰にとっての『暴力』なのか、あるいは、それは本当に『暴力』と呼ばれるべきものなのか、誰かが、勝手にそれを『暴力』と読んでいるだけなのではないか、そして、そのことを無視して、その言葉を使うと、結局、どこかの誰かに加担することになるのではないか」というようなことをいいたかったからです・・・

プログラミングの世界では、現実の複雑な概念をできるだけ抽象化して扱うことがだ。ある種プログラミングの歴史は抽象化の歴史だと思う、アセンブリからC、Java、 Ruby、 Perl・・・。またオブジェクト指向言語の世界ではどう複雑な現実の世界を抽象化するかが面白いところだと思う、bookクラスがshelveクラスにコレクションされていて云々。『暴力』クラスが抽象クラスとして定義されていて、そのインスタンスは『violence』クラスだったり『force』クラスだったりするような。

小説家の高橋源一郎としては逆で、厳密に「暴力」という言葉とは何なのか、本当に真剣に言葉について考えていると思う。ここで政治なんて介入する余地は微塵も無くて、言葉が間違った使い方をされていないか?さらには「暴力」という抽象化された言葉の概念が共有されることで、皆が深く考えることを止めてしまうのを危惧しているのだと思う。「暴力」は良くない、でもその暴力は何のための暴力なのか。深く考えるとき言葉が邪魔をする、これは凄い難しい問題だと思う、言葉はそもそも現実の事象に抽象化したキーを付けて参照しやすくする物で、一種の変数でシンボルだ

「今日は空が暗くなってきて、水がぱらぱらと落ちてくるらしいよ」ではなく「今日は雨らしいよ」と言うことでコミュニケーションが効率的になってくるけど、本当にお互いに言ってる「雨」は同じポインタを参照してるのか?云々、確かに根が深い問題だ。言葉を使ってコミュニケーションする以上避けられない問題なのかなと思う、すくなくともRailsやPlaggerくらいじゃあ解決できそうにない(と思ったら可能にしちゃうのがRailsやPlaggerの面白いところだけど)こんな時プログラマには・ハッカーには何ができるんだろ?なんだろ。

まぁなんと言うか、高橋源一郎の文章からは「言葉のプロだ」という気迫をビシビシ感じた、なんというか真剣だ、と思った。